森では因果関係が成立しない。因果関係というのは、科学的に言えば原因と結果の関係ということだから、森では近代的な科学の思考が成り立たないと言っていいかもしれない。それでも古来から狩猟民たちは森で獲物を捕らえ、飢えを凌いできた。では、その際の狩りに捕獲をめぐる因果関係がなかったのかと言えば、あった。なければ、そもそも狩りの成果は成り立たない。あったというのは、近代科学的な意味での因果関係でなければあった、ということだ。いっそ、それを仏教にまで遡って因果、と呼んでもいい。要は原因と結果の連鎖が近代的な観測で捕捉される範囲を超えている場合、それを関係と呼ぶことには無理がある。だから関係を抜いて因果だけとなる。としたら、因果と因果関係との間には、ある距離(溝)が存在する。そして私には、戸谷の彫刻は、この因果(世界)と因果関係(文明)との間にある距離(溝)を顕在化させているように思うのだ。
結論を急ぎすぎた。順を追って考えてみよう。狩猟とか因果とか、私がこんなことを言い出したのは、もうずいぶん前に読んでずっと気になっていた、あるエッセイのことが、戸谷の彫刻について書く段になって、くっきりと浮かび上がってきたからだ。そのエッセイは、あえてうろ覚えのまま(記憶の影として―浮かび上がったまま)書くけれども、次のような内容のものだった。
ある狩猟者に付き添って、とある評論家が森に行った。狩猟者は彼に持ち前の技を披露するために銃を手にあらぬ方を構えた。評論家はいぶかった。なぜなら、その狩猟者が銃を構えた方向から、獲物が飛び出してくるとは到底思えなかったからだ。ところがしばらくすると突然、そちらの方向がガサガサとして、獲物が飛び出してきた。狩猟者はそれを知っていたかのように、正確にそれを仕留めた。まるで超能力のようだと驚いた評論家に、狩猟者は言った。経験と気配、そして風の匂いですよ、と。
こういうのを因果関係とは言わない。直感や勘と呼ぶ人がいるかもしれないが、それでは生業は成り立たない。だからそこにはなんらかの必然性がある。だがこの必然は、通常の人間が五感で捕捉する範囲を超えているか、ないしはもっとずっと野生的なのだ。だから因果関係と呼べなくても、そこに因果は存在する。言い換えれば、森では通常の因果関係が成り立たない。だからはじめに言ったように、森では因果関係が成立しない。
戸谷という彫刻家は、ずっと彫刻の起源、そのはじまりについて考えてきた人だ。先ほどまでの話に倣って言えば、彫刻そのものと近代彫刻とは重なる部分は当然あっても、同じものではない。近代彫刻は主に人体についての科学的な因果関係に基づいて作られている。それが動勢(ムーヴマン)と呼ばれるものだ。彫刻とはようは物質によるかたまりのことだが、私たちがそれを鑑賞することができるのは物体としての表面だけだ。としたら彫刻にとって内部とはなんなのか。無駄なのか。そうではない。表面とはいわば、内部に潜在する動性(ダイナミクス)の現れなのだ。だから表面を視覚で追うことは内部を鑑賞することでもある。内部がなければ表面もないのだ。人体で言えば解剖学がこれにあたる。私たちは人の内部を解剖でもしない限り見ることはできないけれども、実際には骨格や筋肉が表面の表情を決めている。同じように近代彫刻では、内部は見えなくても論理必然的に外部を規定し、決定している。というよりも、近代に生きる作り手はそのように作らなければならない。
けれども、このような彫刻の考え方は、近代になって科学的な思考が発達するのと歩を一にして登場したものだ。しかし彫刻、百歩譲って彫刻的なものは、それよりも遥か古来から存在していた。それこそ狩猟時代から彫刻/彫像は存在した。それらは世界から独立して存在する「もの」だから、当然、物体としての内部を持つ。しかしその内部のあり方は近代彫刻と同様ではない。もっとはっきり言えば、内部と外部とのあいだに因果関係がない。表面からなるかたちは、内部の延長線上にあるわけではない。この意味で原始の彫像/彫刻は外部と内部とのあいだの連携が切れている。言い換えれば、内部が闇となり、目に見えるかたちにとっての影となる。ではこれらの場合、内部とは無駄なのか。違うだろう。そこには解剖学的なわかりやすい意味での内部と外部の関係がないだけだ。
このような内部と外部の関係を持たない表面性のことを、戸谷はずっとレリーフ的と呼んできた。レリーフもなんらかの物質からなるけれども、その表面に物体としての独立性はないので、おのずと世界と地続きになっている。吉本隆明が「彫刻のわからなさ」で提起した通りだ。吉本の問いかけは、古くから存在したレリーフが、なぜ彫刻として自立する必要があったのか、ということだった。そこには自我の確立があり、人間はその似姿として世界から自立した像を成り立たせる必要があった。これは因果関係というのと並行している。私(原因)がいるから、世界(結果)がある―そういうことだ。近代彫刻もこれを大きな前提とする。内部(私)があるから、外部(かたち)が作られる、ということだ。
吉本の言う「彫刻のわからなさ」とは、そのような「わかりやすさ」が彫刻なのだとしたら、その前提となる確固とした自我が日本にはないではないか、ないのになぜ物体として自立しているだけで彫刻と言えるのか、世界に服属している意味では依然としてレリーフの延長なのではないか、それは彫刻として「わかりにくい」と主張した。
だが、近代彫刻としてわかりにくいことと、彫刻としてわかりやすいこととはまったく違っている。前者をわかりにくくしているのは、レリーフにとって内部とはなんなのか、ということだった。ここでふたたび因果、ということが浮上す る。因果関係の原因と結果が世界からの自立性を前提とするなら、因果における 原因と結果は、この両者が依然として世界に内属している点で「関係」ではない。 因果は世界と地続きなのだ。これはレリーフが世界と地続きであることと密接に 関わる。
冒頭で触れた狩猟者の話に戻ろう。狩猟者は自立した自我として獲物と対峙し ているわけではない。彼は世界に内属し、むしろ徹底的にその内属に耳を澄ませ 体感することで、世界の行方を把握する。その結果、おのずと獲物という外部 (かたち)を得るのだ。実は、レリーフにとっての内部が無駄ではないというのは、 そういうことでもある。解剖学的な必然とは異なる形で、内部は外部は表出しう る。ただしその場合の内部はわかりやすい原因とは異なり、常に闇であり空虚 であり影として把握される。そのような感覚を体感したことがない者にとっては、 それは超能力に見えるかもしれない。そうでなければ呪術だろうか。
しかし、どう呼ばれようとも、だからと言ってそうした感覚が外部に通じてい ないわけではない。というよりも、森のように可算的要素が無限大に絡み合って いる場所では、そちらの方が経験として合理的でさえあるのだ。でなければ狩猟 者は生き残れなかっただろう。狩猟者は生産を管理する農民や都市民ではないの だ。それは因果関係に基づく生産行為ではなく、常に蓄積なき一瞬の銃撃であり、 捕獲なのだ。それが折り重なって経験のようなものにはなるだろう。そのような 体感の集積が戸谷にとっての森であり、それを前提になされる彫刻は近代の形式 をとっても、根源ではその影としての狩猟(制作ではなく業=WORK)がその都度 なされている。私たちはそれを美術館のような展示施設で「作品」として見るけ れども、実際にはそれは作品ではなく、体感の集積としての「実在する過程」に ほかならない。
このような彫刻は、実は「わかる」必要がない。むしろ、その「わからなさ」 にしっかりと身を浸す必要がある。しかしそのためには、戸谷の彫刻をマッス やボリューム、造形、いわんや造形美などに沿って「鑑賞」することは慎まなけ ればならない。そうではなく、自分の体のなかの体感に沿って、自覚的にそれを 反芻し呼び起こす/呼び醒ますように、戸谷の彫刻に「触れる」(見るのではなく) のでなければならない。むろん、実際に手で触るのとは違う。というより、手で 触る触覚という呼び名自体が、近代的な因果性に縛られた画一化した経験なのだ。 古くは触覚と視覚は分かれていなかった。というよりも分かれていたはずがない。 視覚は、遠くから近づいて触れる際に対象が危険かどうかを判断するための触覚 の遠隔活用だった。このような感覚の活用は、腑分けを原理とする解剖学的な体 感とはかけ離れている。
私たちが危機を察知する時、いちいち自分の内部の骨や筋肉について認識など しない。そこで必要となるのは、緊張と弛緩、痛みや不安、恐れや期待といった内部感覚だ。そして、それは経験の積み重ねに基づくから、いたずらに無駄なわけではない。これもれっきとした内部であり、外部へと真っ直ぐにつながっている。ただし世界から切り離されているわけではない。世界を成り立たせているあらゆる物質的性質と密に関連し、内部と外部が接合されるのだ。それは確かに「わかりにくい」かもしれない。美術館のように触覚の行使を最小限に縮減される場所ではなおのことだ。だが、私たちが近代彫刻の縛りを破いて世界という外部に繋がるには、そこで戸谷の彫刻を通じて体感という触覚を引き出し、そのことで視覚と触覚の断絶を解いて両者を再度、出会わせなければならない。
そもそも、世界にとって私とはなんなのか。デカルトは世界から思惟する私を抽出することで空間を外延として定義した。近代彫刻の根底にある法則があるとしたら、それこそがこの定式だろう。だが、そのように抽象化したとしても、自我には埋めることができない影が存在する。というよりも、自我を抽出することで、避けがたい影が生まれた。それは、私は私の目には見えない、ということだ。私の目から私の手や足は見えるかもしれない。しかしそれは外部であって内部ではない。内部を見ることは原理的にできない。にもかかわらず、自我は世界に対峙するために限りなく(疑いえないほど)明晰でなければならない。しかし限りなく明晰でなければならないはずのものが「見えない」というのは語義矛盾ではないのか。このことを避けるため、近代彫刻は生まれた。言い換えれば、近代彫刻とは目に見えるかたちに置き換えられた自我(コギト)だった、と言ってよいだろう。だからこそ、それは目にとって可能な限り「わかりやすく」なければならないし、よもや内部が影であってはならない。
けれども、内部を因果関係で満たし、自我を外部化することで可視化したとしても、根源的に自我に宿る「見えなさ」が消えたわけではない。それは潜在する。それを世界との連繋の残滓と呼んでもいい。つまり、どこまで明晰さを求めても、近代彫刻からレリーフ性が消えたわけではないのだ。
近代彫刻の前提となる因果関係的な人体がいかに抽象的な操作の結果であり、実は多くの影を内部に宿しているかを知るには、森の中を歩いて見るのが一番いい。人体と外部世界との抽象的な因果関係をもっとも明晰に計るために創り出されたのが、陸上競技場だろう。そこではすべてが時間と空間に還元され、その還元を発動する意思の力が示される。だが、森ではそのような時間と空間は一切が通用しない。意思をいくら強く持っても結果は思うように示されないし、むしろその強固さは致命的な危機を招く。言語に例えて言えば、森は表意的ではなく象形的なのだと言ってもいい。象形文字としての森には多くの間隙があるが、それは意味的なものではなく、実際の森の地形的な表層(表面ではなく)と深い繋がりがある。レリーフが地形的というのは、そういうことでもある。地形をなす地中はあまりにも複雑で「わかりにくい」が、森がそうであるように、内部とその表面とのあいだに連携がないわけではない(独立した人体と違い、私たちの科学に地中の構造を明晰に知るX線のような技術は存在しない)。それは存在するが、あまりにも具 体的すぎて、それゆえに複雑(わかりにくい)なのだ。
この森を、森と谷と川からなる山塊を、湖に置き換えてみたら、どうなるだろ う。土と岩と水では、かけ離れているだろうか。いや、そんなことはない。湖と は山塊の溝にたまった水溜りで、水源はもともと山にある。森の表層が因果関係 とは別のかたちで土壌に決定されているように、湖の水面もまた、水面下の水の 塊によって規定されている。水面は森とは異なる素性を持ってなおレリーフ的 だと、言い換えてもいい。今回、戸谷が展示をする本展の会場、市原湖畔美術館 は、読んで名の通り、湖畔(高滝湖)に位置する。しかもこの湖畔は、房総半島 を貫流する養老川を堰き止めた巨大なダム湖なのだ。聞けば、その建設のために 110戸もの家が水底に沈んだという。むろん、湖畔に立っていくら目を凝らして も、そのような過去の事実が水面越しに透視できるわけではない。そこに因果関 係はない。だが、因果までもがないと言えるだろうか。もしないのであれば、な ぜ湖は古来から人身御供とつながっているのか。湖ではないが、古墳からは多く の人型が掘り出されるという。一種の依代とも考えられ、レリーフとも違ってい る。造形ではないが、なにものかの器ではあるはずだ。ならば、そこには内部が ある。私たちにそれが読み取れないとしても、外部との通路が折り畳まれている。 関係を抜いて因果と言うなら、それが彫刻のはじまりと無縁だと誰が言えるか。
戸谷の彫刻は、近代彫刻としては「わかりにくい」。しかし逆に言えば、その 「わかりにくさ」によって、彫刻の起源、そのはじまりに近代彫刻の影を通じて 肉薄している。肉薄しているというのは、解剖学的な明晰さとは異なる直接性を 通じて、呪術的に近接している、ということだ。この呪術性と言うのが、前近代 の産物ではなく、森の狩猟者の体感や経験に基づく具体性の折り重なりからなり、 ゆえに近代に限定された視覚からすると呪術的にしか見えないことについては、 すでに書いた。しかし、それは私たちの視覚の行使を触覚と連携することに成功 しさえすれば、たちどころに現実味を帯びる。この現実味というのが、戸谷にお ける「界面」であり「境界」なのだ。そこで私たちは、彫刻をめぐる因果関係が 因果と一瞬重なり、同時にずれる厚みのない距離=溝、つまりは近代彫刻の活断 面を見る/触れるだろう。煎じ詰めれば、それが戸谷にとっての森であり、森の 根としての水源なのだ。
付記・本論の初めのほうで猟師と評論家の話が出てくる。あとで記憶をたぐってみたところ、洲之内徹の著作の中に該当箇所があった。実際の文章はもっとはるかに複雑で、一読の価値がある。洲之内徹「守りは固し神山隊」、『さらば気まぐれ美術館』(125–129頁、新潮社、1988年)。
(さわらぎ・のい 美術批評)