シュウゴアーツ オンラインショー
映像小屋3-残光

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2025. 7. 26 Sat8. 30 Sat
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残光 - Afterglow

奥多摩と山梨の県境にある山の中腹から、

西にそびえる甲州市鶏冠山の頂の左肩付近に沈んでいく夕日を眺めていた。

空の色が透明な青色から、透明な黄色に変化していく。

今日一日、私たちを照らしていた光源はついに見えなくなった。

それでも、あたりが暗くなったわけではない。

人々は山の向こうの光源の存在を感じながら、暗い世界の訪れを迎える準備をしている。

 

そんな時間について考えていてふと思った。

私たちは常に残光の中に生きているのかもしれないと。

先祖からつないできた残光――それは歴史や影響といった言葉に置き換えることもできる――その中で私たちは暮らしている。そしてただ毎日、接続の光と残光の中を歩んでいるのかもしれない。

 

昨年12月に99歳で亡くなった祖父が遺した家や物を、7月に入った今でも私たち家族は整理している。祖父の姿は見えなくても、その存在の記憶は消えることはないだろう。

 

私は過去の光を映像として残す術を知っている。

その実体や時間はすでに失われたものであったとしても、光として残るのだ。

魂の流れ - Soul flow

祖父が遺した家の空間には、今も生活の気配が色濃く残されている。祖父が存命の時よりも、片付けのためにその家を訪れる機会が多くなったのは、なんだか不思議なような、申し訳ないような気もする。それでも、祖父のことも家のことも忘れて日常生活を送るより、祖父を想いながら家を使う方が、祖父の霊への孝行だと考えたりもするのだ。

 

今も先祖の霊が、その土地や家の中に漂っていると想像すると、この世もあの世も実は同じ世界で、私たちはただ風に吹かれているだけなのかもしれない。

魂の流れ, 2025, UHD video, 4min. 24sec. *silent

留めることはできず、失い続けていく - It cannot stay and will continue to be lost.

昭和44年(1969年)に当時の贅を尽くして建てられた祖父の家も、長い時を経て、主を失い、家のあちこちが動かなくなったり、傷んだりしている。祖父は子どもや孫たちが、受け継いできた土地を守り、未来へつないでいくことを願っていたと思う。しかし、ある形や姿、もののあり方を、変わることなく維持し続けることができないことは自明である。そんな自然の摂理に抗い、変化を止めようとすればするほどに、その固執により変化を進めてしまうというようなこともあるだろう。

 

自分の身体も含めて、何かを失い続けていく中で、私たちは何を残すことができるのか。

留めることはできず、失い続けていく, 2025, UHD video, 3min. 17sec.

私たちの練習 - Our Practice

思春期の頃、私は未来に対しての漠然とした不安を抱えながら、毎日のように校庭に散らばる白球を追いかけていた。

ボールが見えなくなる時間になると、野球部員は一斉に、トンボと呼ばれる木製用具を使ってグラウンドを整備する。そのトンボをかける時間の感覚を今でもふと思い出す。何かをやり遂げたような充実感と満足感。きつい練習が終わった安堵の気持ち。遠くの空はまだ完全に暗くなりきっておらず、空のグラデーションが世界を祝福しているかのようだ。

 

ただただボールを追いかけていたあの時の自分と、今の自分は何が違うのだろう。サーキットは今も続いている。

私たちの練習, 2025, UHD video, 11min. 10sec.

3カウント - 3 COUNTS

亡くなった人の物を整理するのはとても難しい。その人や自分の思いや記憶が結びついているのだから。普段の生活に必要でなくても、今後使う予定もなくても、思い出を捨てるのは難しい。どうしたらものを残す、残さないを判断できるのか。どうしたらけりをつけられるのか。「決まる」と「決まらない」の間とはなにか。

 

試合の決着は、時間が関係していることが多い。プロレスはレフェリーの3カウントで勝負が決まる。プロレスの試合を決めているのは誰なのだろう? レスラーなのか、レフェリーなのか?所有者と所有物の関係を無視して、私は3カウントし続ける。

3カウント, 2025, UHD video, 7min. 8sec.

テニスコート・ステージ・ドラム - Tennis court, stage, drums

スポーツ選手にとっての試合会場、ミュージシャンにとってのコンサート会場。どちらもプレーヤーが光輝く舞台という点では同じだろう。しかし、奏者のいないドラムセットや、相手がいないまま転がるテニスボールもまた美しい。寂れたテニスコートに突如鳴るドラムの音が、不在の空間に抗う「存在の響き」に聞こえるのは自分だけだろうか。羊男が言うように、私たちはテニスボールが放たれるうちは、誰が決めたかもわからないルールの中で、動き続けなければならないのだ。

 

「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言っていることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。」

—『ダンス・ダンス・ダンス』(村上春樹、1988年)より

テニスコート・ステージ・ドラム, 2025, UHD video, 4min. 12sec.

世界 - The WORLD

祖父母の家、両親の家、自分の家にある人形やぬいぐるみをかき集めてならべてみたら、まるで山や森、海岸のような自然の風景にも近い不思議な光景ができあがった。この物たちそれぞれに、結びつけられた思い出があるのだろう。物は記憶の入れ物になるのだ。

 

祖父母の魂や記憶が、今もいたるところに漂っているならば、世界はもっと複雑で、あらゆる人や物が同じ場所で同時に、多次元的に存在しているような、死や離別を超えた可能性に満ちているのかもしれない。

世界, 2025, UHD video, 5min. 35sec. *silent

祖父母と家の記憶について

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高度経済成長期に、当時の贅を尽くして建てられた昭和モダンの邸宅。見るからに重く分厚いコンクリートで作られた外観。使われなくなって久しい全館空調のボイラー室、異様に派手な柄のタイルカーペット、まるでルノワールの絵画を思わせる居間——そうした空間を見渡して、改めてこれは「普通の家」ではなかったと実感する。

 

庭にせり出すように作られた和室の縁側からは、松やツツジの植えられた日本庭園風の景色を望みながら池の錦鯉に餌をやることができた。広い芝生の手入れには、近くのゴルフ場から除草剤をもらっていたらしい。

 

自分が中学生の頃、庭の隣にテニスコートが作られた。祖父の経営していた医療法人の職員向けの娯楽施設ということだったが、ナイター照明、ベンチ、テニスボール自動発出練習マシンなどが備え付けられた本格的なものだった。田んぼからカエルの合唱が聞こえるのどかな周囲の環境からは完全に浮いていた。

 

自分が小学生の頃は毎週日曜日に祖父母の家で夕飯を食べた。食卓の脇にあるブラウン管テレビでは、まず大相撲の中継が流れ、その後「笑点」、「巨人戦ナイター中継」と続く。

 

寡黙な祖父を思い出すとき、まず浮かんでくるのは、居間の深緑のソファに腰かけ、じっとゴルフ中継を見つめている光景と、足を引きずりながら畑を歩き回り、黙々と鍬を振う姿だ。隣町の医療法人の会長だった祖父。戦争で徴兵され暗号班に配属された祖父。95歳を超えて入院する前まで、ずっと畑仕事をしていた祖父の手はゴッホの油絵に出てくるような、ずっしりと重く、長い年月と苦労が詰まった農夫の手だった。会長と農夫という二面性は、サラリーマンとして働きながらアートの制作をしている自分と重なる部分がある。

 

祖父は、ただ畑の仕事が好きで、収穫された野菜にはあまり興味がなかったように思う。自分も作品を制作すること自体が好きで、祖父と同じく収穫よりも、作りながら生きていくことに興味があるのかもしれない。

 

祖父が遺した家からは大量の品々が発掘された。怒涛のような時代の変化の中で、自分の家に絶えず注ぎ込まれ続ける物たちを持て余し、祖父は思考停止、あるいは見て見ぬふりをしてしまっていたのではないかと思っている。

 

現在、池の水は抜かれてコンクリートの池底からススキが生えている。テニスコートには亀裂が入り、裂け目から雑草が繁っている。祖母の趣味のために作られた温室小屋には何年も枯れた鉢植えが陳列されたままだ。居間の天井は剥がれているし、ウォークインクローゼットの床も抜けている。それでも自分は寂しさやもののあはれを感じるというより、今の時代にそぐわないそれらの空間や品々に、体温にも近い親近感を感じている。

 

古くなった撮影機材や小道具が詰め込まれた自分の倉庫部屋を眺めながら、自分が残すべきものについて今も考え続けている。

 

2025年7月15日  山本篤

展覧会情報

シュウゴアーツ オンラインショー
山本篤・映像小屋3 —残光
アーティスト

山本篤

公開期間

2025年7月26日(土) ‒ 8月30日(土)

会場

シュウゴアーツ オンライン

企画

石井美奈子

テキスト

山本篤

翻訳

山崎いおん

ページ構成

香月恵介

Special Thanks

マセオ・トゥゼ

酒井貴史

和田昌宏

山本龍

宮川英男

宮川潤

山本京子

山本譲

藤田清

Atsushi YAMAMOTO | ShugoArts
山本 篤
Atsushi YAMAMOTO

1980年東京都生まれ。多摩美術大学絵画学科卒業。2003年にベルリンへ渡り、映像制作を始める。2018年には文化庁新進芸術家海外研修でベトナム・フエに滞在。平日は会社員として働き、休日に撮影するスタイルを貫き、300本以上の作品を制作してきた。生きることの意味と無意味さを問う、社会派のフィクションから私的なドキュメンタリー、コント的な実験映像など多彩な作品を発表している。

 

主な展覧会に「寄る辺ない情念」黄金町バザール2024(2024)、「昨日の神殿」Art Center Ongoing (2024) 、「MY HOME IS NOT YOUR HOME」シュウゴアーツ(2022)、「DOMANI・明日展」国立新美術館(2021)、「MAMスクリーン07」森美術館(2017-18)、「ビデオアートプログラム 世界に開かれた映像という窓 第24回:山本篤」広島市現代美術館など。

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