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世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現われる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならないだろう。世界は決定的にあるがままの世界であること、彼岸は決定的に彼岸であること、その分水嶺を今度という今度は絶対的に仕切っていくこと、それがわれわれの芸術的試みになるだろう。

世界と私は、一方的な私の視線によって繋っているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。(中略)あくまでも具体的現実に即して思考すること。それが目指すべきたった一つの方向である。いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向かってまた物の視線を投げ返してくるのだ。そこには私の視線を拒絶する世界、事物の固い〈防水性の外皮〉がただあるばかりである。

世界、事物(もの)の擬人化、世界への人間の投影を徹底して排除してゆかねばならないであろう。なぜなら、すべてを人間中心に、人間に擬して見るわれわれの思考は、事物を事物として語らせることを初めから不可能にしてしまうからだ。それではまたふり出しに戻る。おそらくそのような擬人化、あるいは情緒化を徹底的に排除した時、事物を事物として凝視した果てに、私の視線の凝集をはじきかえして事物が真の幻想性を帯びて顕現してくるのだ。そこにゆきつかぬところでの幻想、それはただ視線の脆弱さを証すにすぎず、此岸と彼岸の混淆、またそこから生まれるふやけた情緒であるにすぎないのだ。

われわれは事物を凝視し、それを所有しようと事物に突進する。だが事物はそれに対して何も答えはしない。われわれの視線は事物の堅牢な外皮によってはじき返されるだけである。われわれの視線を前にして事物は絶えざる後退としてある。だがまさしくこの一点、私の視線がはじき返されるその一点から、事物の視線は私に向かって投げかえされはじめると言っても同じことであろう。

中平卓馬 『なぜ、植物図鑑か』1973年2月刊より抜粋
『見続ける涯に火が… 批評集成 1965-1977』, オシリス 2007年刊所収

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